子供のコミュ力が高くて公園であわあわするコミュ力のないパパ

小さな子供がいると、公園に行くのが日課となります。特に土日に子供を公園に連れて行って遊ばせるのは父親の役目になりがちです。

かかりつけの公園がいくつか出来て、子供の希望に応じてローテーションして回ります。

子供は30秒だってじっとしていることができず、エネルギーの塊なので家の中にいても走り回ったり兄弟がいると喧嘩が増えて騒がしくなるので、公園で遊ばせた方が安全だったりします。

椅子に座ってじっとすることが絶対にできない子供の姿を見ると、自分はなんて老いたのかとつくづくと実感します。

年々自分がのび太君化しているのを感じており、寝るのと何もせずにボケーっとするのが1番楽になりつつあります。あかんわこれでは。実家の(今の自分の家ではない)布団で目的もなくゴロゴロするのが極上の瞬間です。

公園に行って、よく会う子供やお母さん同士で仲良くなるというは結構あることだと思います。子供は基本的にコミュ力が高いというか知らない子でも積極的に話しかけて一緒に遊びます。

僕の子供も、公園の砂場で一緒になった見知らぬ子に話しかけて一緒に遊んだりすることがあり、とても微笑ましいなあと思いながら眺めています。

ただ、子供に話しかけるだけなら良いのですが、僕の子供はよその子のお母さんにすぐに話しかけるのです。近くにいる知らないお母さんに、「逆上がりできるから見て」とか、「蟻が歩いている見つけたの」とか「変な虫がいるから一緒に来て」とか、自分の行動に知らないお母さんを話しかけて巻き込もうとします。

これが単発なら良いのですが、本人が気に入ったお母さんなのか、何回もそばに寄っていろいろとアピールして話しかけて、継続的に自分の行動に巻き込もうとするのです。

コミュ力があって優しい人は、この問いかけに答えてしまい、これが端緒となって僕の子供とずっと一緒に遊ぶことになります。

子供同士だけで一緒に遊んでくれることには、ベンチに座って見ているだけでいいのですが、よそのお母さんも一緒に遊んでくれると、面倒を見てもらっているのが心持ち申し訳なくなるので、ベンチでふんぞり返ってスマホでポチポチするわけにもいかず、自分もその輪に加わらないといけない状況となります。

ブランコを押してもらったり、逆上がりを助けてもらったり、果てはおにごっこやかけっこまで一緒にやってもらったりで、さすがに遠くから眺めているだけというわけには行きません。

そうなると、よそのお母さんとその子供、僕と僕の子供で固まって行動することになるのですが、時には1時間くらいずっと一緒に行動しなくてはならなくなり、何気にこれで気疲れしてしまうことがあります。

年休が余っていて連続して年休を使った時に、平日の2日間連続して同じお母さんと一緒に公園で遊んだこともあるのですが、リストラされて職のない父親と思われていないか心配になりました。

僕は今でこそコミュ力ないですが、小学生の頃までは明るくてよくしゃべり友達の多い子でした。完全に過去形なので本当に残念です。

実家で根暗に過ごしていると、たまに母親から、昔はよくしゃべる快活な子だったのにねえと残念な感じで言われてこちらも少しいたたまれない気持ちになることがあります。

思春期を迎え勉強が自分の生活で締めるウェイトが大きくなるに従って、あまり話さない根暗な性格に変わっていきました。

単純に年齢によるものなのかガリ勉になったせいなのか、どちらが主要因なのかは自分でもわかりませんが、勉強ばかりしていると大切なものを失っていくというのは自分はそうだと思っています。未来よりは過去が素晴らしいと考える性質なので、東大に行って得たものよりも、失ったものについて考えてしみじみすることがあります。

もし人生をやり直せたら、東京なんて疲弊するところには行かないでずっと実家に寄生して地元に1番近い国立大の文学部に行って、大学院まで行って英文学か国文学を研究して食えない講師になっていつか日の目が当たることを願ってセンスのない小説を書きながら細々と生きていくのもいいなあと考えます。

話が逸れましたが、我が子には、成長しても決して自分に似ないでこのまま社交性を維持して大きくなって欲しいなと願ってやみません。