永遠の愛の条件は非保証性にある~七夕に考えたこと

7月7日は七夕でしたね。

1年に1度だけ、天の川に隔たれている織姫と彦星が出会えるロマンチックな日です。

子どもの幼稚園の短冊に子どもたちのいろいろな願い事が込められており、「けえきやさんになりたい」「ぱいろっとになりたい」「おかしやさんになりたい」「ぷりきゅあになりたい」など、とてもかわいくて微笑ましい願い事が星のようにキラキラしていました。

その眩しさにより、瞬間、僕の荒んだ心が微かな光を取り戻したようでした。

当たり前ですが、「テンバガー株で一発あてて働かずに生きたい」とか「アメリカ株で配当金生活したい」とか「セミリタイアして優雅にハンモックの上でギリシャ神話を読みふけりたい」とか「労働者階級から卒業して資本家になって社畜を嘲りたい」とかという願い事は1つもありませんでした。

僕は子どもが女の子なので、素直で歪みのないいい子に育って幸せなお嫁さんになってほしいと抽象的に思っています。

しかしもし男の子だったら、1浪しててでも最低早慶以上は行け、と思うだろう勝手な親です。

このあたりは自分の心の根っこに古い思想が残っているからなのかなと思われます。男の子の幸せと女の子の幸せはやはり違うところにある気がする。

世の中資本家になれないやつは負け組だとか、毎日何も考えずに学校に行って会社に行っているやつは洗脳されているとか、いかに若年期にお金がお金を呼ぶシステムを形成して労働者として生きなくてもよい選択肢を確保することが大切だとか、今のところはそういったセリフを子どもに言うつもりはないのですが、もし男の子だったら、いつから世の中の資本主義の原理や株式投資のことを話すか、迷ってしまいそうです。

東大のしかも法学部に行っても毎日生きるためにやりたくもない仕事をやって安い給料で働いている、これが労働者階級だと。説得力抜群ですね。

僕の孫はおそらく自分の資産形成が順調にいけば「生まれながらの高等遊民」になれる可能性は少しはある?かなと思っているものの、子ども世代だとさすがに厳しいです。しかし子どもには社畜になってほしくないなあ。

さて、子どもによると、七夕とは、遊んでばっかりで仕事をしなかった織姫と彦星に神様が怒って、天の川をつくって1年に1度しか会えないようにした日です。

1年に1回しか会えなくなってかわいそうだと思う?と聞いたところ、「かわいそうじゃない」という返事が返ってきました。

理由は「仕事しないから悪かった」とのこと。現実的な答えだな我が子よ。

思うに、織姫と彦星は1年に1回しか会えなくなったことで永遠の愛を獲得できたのです。

1年に1回しか会えないとは可哀そうという意見が世の中には多いと思いますが、それは星になれない短い生涯を送る人間の傲慢な解釈です。そうじゃないんです真実は。そんな安易な考えしないでください。

神様は天の川で2人を隔てることで2人の永遠の愛を破壊したと思っているでしょうが、隔たることで2人の愛は永遠に破壊されない強固なものとなったと考えることも可能です。

恋慕の情というのは、想いが叶わないからこそ無限に湧き上がってくるものです。こんなにも会いたいのに会えない、障害があることで愛が盛り上がる。会いたいときに会えてしまったら、恋慕の情はなくなります。

天の川とは2人に永遠に恋慕の情を維持される装置です。

愛が消失する必要条件は、2人の間に何の制約もなくなることです。会えるときに会える、自由になんでもやれる、そんなつまらない恋愛があるでしょうか。

結婚という永遠の愛を保証するはずのシステムが逆に愛の消失の契機となるのは何とも皮肉なものです。永遠の愛を保証することで永遠の愛が失われる。

愛の継続の本質は非保証性にあり。

「結婚はすべての人生劇の終焉である」とは、かの偉人の残した言葉ですが、制約のない愛はドラマにも映画にも戯曲にもなれません。

必要は発明の母というように、制約や非保証性は恋愛の火を燃やし続けるのに必須条件です。

織姫と彦星は、永遠に近い命があるのでしょう。人間にとって1年は長くとも、永い命を持つ彼らにとっては、たかが1年空いても永遠に近い回数逢瀬を重ねることができるでしょう。

永遠に近い命で、天の川という障壁があるからこそ生涯永遠の愛を維持できる、考え方によっては何とも羨むべき状態なのかもしれません。

永続する熱い刹那よ。