日本が独ソ戦勃発後に対ソ開戦しなかった理由【石油なき消耗戦と対米英ソの二正面作戦突入】

1941年6月22日、ドイツ軍300万の大軍勢が突如として雪崩れ込むようにソ連国境を越えてソ連領内に進撃します。

ドイツとソ連は当時独ソ不可侵条約を結んでいましたが、ドイツはこれを破棄。ドイツ軍によるソ連奇襲「バルバロッサ作戦」の開始です。

ソ連の指導者スターリンは、ドイツによるソ連侵攻が間近であるとの情報を国内の諜報部やイギリスから度々伝達されていましたが、これらの情報をドイツとソ連との共倒れを狙うための嘘の情報であると断定し、聞く耳を持たなかったことからドイツ軍による完全なる奇襲となります。

日本とドイツはこの時すでに日独伊三国軍事同盟を締結し同盟国の関係でした。

考えてみれば不思議なことなのですが、第二次世界大戦中、同盟国であるドイツがソ連と戦争をしている状態なのに、日本は同盟国の敵であるソ連に対しては最後まで攻撃をしませんでした(1945年8月という日本の敗戦が決定的になっている時にソ連側による侵攻はありましたが)。

地理的にも、ドイツと日本でソ連を西と東から挟撃でき、ソ連を二正面作戦に持ち込むことができます。ドイツに応じて対ソ開戦し、ソ連を2国で挟撃していればソ連を屈服させることができたのではないか。

軍事史が好きな人に歴史の「if」として語られることが多いのは次のようなところでしょう。

1941年のドイツ軍は快進撃を続け、ソ連の首都であるモスクワまで迫ります。そして1941年10月にはモスクワ攻略作戦「タイフーン作戦」を発動し、赤い国家の首都を巡って激しい攻防戦が展開されます。

史実ではタイフーン作戦は失敗し、あと一歩のところでドイツ軍はモスクワを占領することができませんでした。

結果としてこの作戦の失敗により短期決戦を狙ったドイツ軍の目論見は崩れ去り独ソ戦は長期化・泥沼化し、1941年をいっぱいにドイツの経済抗戦力は頂点を過ぎ、やがて国力に劣るドイツはソ連の反攻攻勢を受けて敗戦を迎えます。

ドイツがモスクワを落とせなかった理由の1つとして挙げられているのが、スパイゾルゲの情報により日本の対ソ参戦はないと判断したソ連が、日本軍牽制のために満州やシベリアに配置されていた極東ソ連軍をモスクワ戦線に投入したためです。

これにはなぜ極東にいるはずのソ連極東軍がモスクワにいるのかと想定外の状況にドイツ軍も驚いたといわれています。

この時日本がソ連に攻め込んでいれば、精鋭たる極東ソ連軍は対日戦のため釘付けにされモスクワに投入されなかったため、ドイツはモスクワを落とし結果ソ連を屈服させることができたであろうというものです。

また仮にこの時点でソ連が降伏せずとも、日独で挟撃すればいずれかはソ連を屈服させることができたのではないか。

事実、日本は独ソ戦勃発後、陸軍参謀本部の強烈な要望のため、演習と称してソ連国境付近に陸軍兵力85万の大軍を配備し、独ソ線の状況に応じて対ソ参戦を可能ならしめる措置をとっています。

しかしながら、史実ではこの後日本は「北進論」ではなく「南進論」を採用し、資源を求めて南部仏印に進駐します。

なぜ日本は対ソ開戦しなかったのでしょうか。

対ソ開戦していればソ連は崩壊し枢軸国は連合国に勝っていたのではないか。同盟国ドイツからは再三再四対ソ開戦を要求されていたのに、対ソ開戦しなかったことが日本の最大の過ちではないのか。

そう思っている人もいると思いますが、日本が対ソ開戦しない、いや対ソ開戦できない2つの理由がありました。

1つは石油、もう1つはアメリカとの関係です。

対ソ開戦によって日本の生命線である石油の問題は全く解決せず、日ソ戦が消耗戦に陥れば日本はチェックメイトであり、また対ソ開戦は事実上、「対米英ソ戦」を勃発させることになる公算が高かったからです。

北に石油はない / 対ソ戦は消耗戦になり、得るものがない国家的自殺行為

日本が太平洋戦争に突入しアメリカと戦争した理由の1つが、油です。

資源のない国である日本は、石油の確保が死活問題でした。当時石油の輸入では8割ほどをアメリカに依存しており、アメリカから対日石油禁輸措置を講じられた日本は石油を求めて南進していくこととなり、これがアメリカとの対立を深めていくのです。

石油がないと、軍艦も戦車も飛行機も動かすことができず、戦うことさえできません。

戦わずして敵国に屈服することになるし、国内産業も死滅し経済も息の根が止まります。それくらい石油というのは大切な資源なのです。

当時日本陸軍の石油の備蓄は半年ほどです(通常は平時で2年、戦時で1年半ほどと言われますが、僕が読んだ本の当時の陸軍担当者は「半年」と発言していますのでそのまま採用します)。

仮に日本がソ連に侵攻したとして、石油が得られるかと言えば、答えはノーです。

北樺太に油田はありますが、とても日本の需要を満たせる分量ではなく、ソ連極東エリアは資源地帯がありません。

ウクライナなどのヨーロッパに近い方のエリアであれば油田も豊富ですが、仮にここを抑えることができたとしても日本との物理的な距離がありすぎて、輸送は現実的ではありません。

対ソ戦を実施する場合は、そのための石油がまず必要となります。戦いが長期化するなら尚更です。

ソ連に攻め入って対ソ戦が日本に有利に進んだとしても、日本の最重要問題である石油問題を全く解決することができないのです。

そして、対ソ戦が短期で終結せずに長期に渡る消耗戦になった場合、日本は備蓄の石油がなくなって戦車も車両も動かすことできなくなり戦えることができなくなり敗北を迎えます。

ソ連と戦争をして、長期戦になりそうだから石油を求めて南進しても、時すでに遅しです。

つまり、対ソ戦を実施して長期の消耗戦に陥った時点で、日本は石油の枯渇で敗北が決定付けられます。ストックしている石油を消費しない極めて短期間でのソ連屈服が確実であると言えない限りは、ソ連侵攻は「国家的自殺」行為なのです。

ドイツによるフランス侵攻でフランスの敗戦間近に火事場泥棒のように宣戦布告したイタリアという国がありますが(しかも敗戦間近のフランス軍に撃退された・・)、もし日本が対ソ開戦するのであれば、この時ばかりは国家の持続可能性を考慮すればイタリアと同じようなタイミングでの宣戦布告でしかありえないわけです。

当時の日本国内では、独ソ開戦後は陸軍参謀本部と外相松岡洋石が即時の対ソ戦を唱える強硬派でした。

参謀本部にとっては、ずっと北の脅威であったソ連を倒すまたとない千載一遇の機会が到来したのですから、即時開戦を強く主張します。

また松岡などは、当時自分が主導して締結したばかりである日ソ中立条約を即刻破棄してソ連に攻め入るべきだと主張します。

松岡の頭は、常に対米戦を避けることに注力していました。当然日本だけではアメリカに対抗できる外交パワーが足りませんので、同盟国の力を利用した対米外交を展開しようとします。

日独伊にソ連を加えた「日独伊ソ四国協商」を締結し、対米外交を実施するグランドデザインを描いていました。

それが独ソ戦でもろくも崩れ去り、ドイツもソ連で手一杯となりアメリカに対抗するには日本の外交パワーが足りません。であれば、ソ連をドイツと協力して打倒しないと、アメリカとの外交交渉が行き詰まると考えていました。

しかし、結果として独ソ戦勃発でソ連という北の脅威がなくなったことで、これを好機に持久戦に必須となる資源を求めて南進すべしという南進論が採用されます。南進論者には、ソ連の脅威がなくなることは絶好の好機だったのです。

もっとも、陸軍参謀本部を中心とする北進論も根強いものがありました。結果、両論併記というか、独ソ戦の経過を見てソ連の敗北間近に参戦する余地を残すために、「対ソ戦は状況に応じて実施」という留保も付いていました。

参謀本部の計画では、極東ソ連軍が対独戦のため西方に移送され極東方面の軍事力が低下したタイミングをみて、ソ連領内に侵攻する計画でした。

そのための兵員配備のため、「関東軍特別演習」の名目で85万の兵力をソ連国境付近の満州に終結させます。

実際は、1941年8月にアメリカが対日全面禁輸措置を取り、この時点で生命線である資源問題を何ら解決し得ない北進論は後退します。

余談ですが、よくこの時期の日本を述べるときに「軍部は」とか「陸軍は」とか「海軍は」とあたかも軍部や陸海軍は1枚岩のように擬人化されて語られることが多いですが、当時の日本の意思決定の過程はまさにカオスです(今も?)。

陸軍と海軍は全く考えが異なりますし連携はなく、陸軍内部でも参謀本部は北進論であるいっぽうで陸軍省は南進論を推進するなど、軍部でも様々に異なる考えを持つ人物が乱立しており、意思決定システムが複雑怪奇すぎていろいろな本を読んでもこの時代の意思決定の過程をまだよく理解できていません。

基本的に陸軍は伝統的に仮想敵国がソ連であり北進論を推進していますが、陸軍内でも当時対ソ開戦の可否については意見が割れていたのです。

「ヒトラーがソ連を攻めたいからソ連を攻めた」のように単一の意思決定者がいてすべて当該者の責任に帰すというのが日本ではできません。

さて、参謀本部は対ソ開戦強硬派でしたが、陸軍省は、ソ連軍の力を恐れてこれに反対します。ドイツによる、ソ連は2~3か月で屈服可能との声明にも楽観論にすぎるとこれを相手にしません。

日ソ両軍の衝突といえばノモンハン事件があります。

ソ連崩壊後にソ連側の資料が公開されて、日本の一方的な完敗と見なされていたのが実はトータルでは引き分けに近い戦いであったことが判明しましたが、機甲化されたソ連陸軍に日本陸軍は大変な苦戦をし、「精神論では勝てんから装備の近代化が強く必要」といった趣旨がノモンハンの戦い後の報告書に記載されたくらいです。

独ソ戦初期のドイツの快進撃を見ても、陸軍省はソ連が短期で屈服することは考え難く、日中戦争のように長期化・泥沼化は必至であり、日本軍によるソ連の極東兵力を攻略するのにも半年はかかると想定していました。

対ソ戦に半年もかかったら、石油がなってしまい抗戦力が尽きます。

史実の独ソ戦を見ても、ソ連は年を経るごとに軍事力が強化されていき、2000万人の戦死者が出ても降伏しなかった常識では測れない国です。

また、1941年のタイフーン作戦で仮に首都モスクワが落とされても、降伏していたかは大変疑問です。生産設備や工業都市はモスクワが陥落してもモスクワ以東にありますし、継戦能力に問題があるとは思えません。

実際に中国は首都南京が日本に落とされても降伏しませんでした。

余談ですが、ドイツ軍はモスクワに到達した時点で兵力は消耗しきっており補給線も限界を超え、既にソ連軍を屈服させるだけの力を喪失していたというのが近年の有力説です。

泥沼化した日中戦争を終結できず、極東ソ連軍すら短期間で叩ける公算のない日本軍が、広大な領地であるソ連を舞台に奥地まで進撃できるイメージは湧きません。太平洋戦争での惨状を見ていると、仮に戦闘自体は良好に進んでも補給線は必ず尽きるでしょう。

まとめると、ソ連を攻めても油は手に入らない、消耗戦になったら油のストックが尽きて抗戦力を喪失する、対ソ参戦をして国力を消耗した挙句に結局何も得るものがなかったという状況は国として自殺行為であり北進は採用できない、となります。

対ソ開戦は即ち対米英ソ開戦となる

もう1つの理由が、ソ連と戦うということはそれは同時に対米・対英戦に突入する公算が非常に高く、対ソ・対米英の破滅的な二正面作戦(中国も入れると三正面)に突入するということです。

当時イギリスはドイツと交戦状態にあり、ソ連が屈服すればイギリスはいよいよ窮地に立たされます。このような状態で日本がソ連に侵攻すれば、果たしてアメリカが黙っているでしょうか。

また、対ソ戦が仮に日独に優勢に推移した場合、ユーラシア大陸を日独が制覇するのをアメリカがただ黙って見ているだけに留まってくれるでしょうか。

少なくともイギリスを支援するために、日本が対ソ開戦した時点でアメリカは日本への石油輸出の全面禁止措置を講じる公算が極めて高いというべきです。

実際に、北進を主張する陸軍参謀本部に対して、対米開戦を避けたい海軍は、対ソ開戦はアメリカの参戦を誘発し、二正面作戦に陥るとしてこれに反対しています。

また、ただでさえ当時の米国大統領ルーズベルトは親ソ・親共産派ですので、ソ連への経済・軍事援助は無制限に行われそうですし、対独戦に参戦したくてしたくてたまらない戦争屋ルーズベルトは、日本の対ソ参戦を理由にいろいろと難癖をつけてたとえ自作自演であったとしてもアメリカ参戦へ世論を傾けようとするでしょう。

石油が手に入らなくなれば日本はストック分の石油をすぐに消費してしまい、対ソ戦をしながら戦争継続のための油を求めて東南アジアの連合国の植民地に進出しなければならず、国力の限界を超えた「南北両進」をしなければならなくなります。

そうなれば、対ソ戦・対米英戦という絶望的な二正面作戦に突入し、ソ連が日独挟撃により極めて短期間で降伏するという希望的観測が実現化する場合を除いては、ソ連とアメリカを同時に相手にした破滅的な戦いを強いられ、今頃日本は北日本と南日本に分断され、緊張関係をもって両国が対峙していたことでしょう。

北進しても南進しても結局対米戦は不可避。ただ南進したことで、ソ連との戦闘を1945年8月まで遅らせることができた、ということです。

史実では、日本が1941年7月に南部仏印(インドネシア)に進駐したことからアメリカは8月に日本への石油の輸出を全面禁止し、これにより北進策は採用することができなくなり後退し、日本は太平洋戦争へと突入していきます。

実際にアメリカの対日石油全面禁輸は、日本が北進しないよう牽制する意味もありました。そのため、日本が対ソ開戦した段階で、アメリカが日本への石油輸出の一切を停止する蓋然性は極めて高かったと思われます。

以上、日本が独ソ開戦後にドイツに呼応して対ソ開戦しなかった2つの理由を見てきました。

もう1度記すと、対ソ開戦は国家的自殺となる蓋然性が高い行為でした。

  1. ソ連に侵攻しても日本の根本問題である石油不足の問題は全く解決できない。独ソ戦は長期化が必至であり、対ソ参戦しても消耗戦となり石油のストックが尽き国力を喪失する
  2. 対ソ宣戦布告は、すなわち対米・対英宣戦布告に等しい。ソ連だけでなく、米英ソという国力の限界を大きく超える二正面作戦に突入した公算が大きかった

実際に日独の挟撃でソ連を短期間で屈服できた可能性がどれくらいあったのかは個人的に興味がありますが、これについては説得的に記載された資料を見たことがないので素人には何とも言えません。

ソ連軍に対して85万という数字は全く不十分ですし、当時世界最強の陸軍国家であるドイツ軍の装甲師団ですら激しい消耗戦を強いられていましたので、零戦をはじめとする航空機はともかく、地上兵器ではソ連に劣る装備であった日本陸軍が果たしてソ連軍を押すことができたのかは不明瞭です。

しかし、チャーチルなどは「独ソ戦開戦後に日本がソ連を挟撃することが、日本が第二次世界大戦で勝者になる唯一かつ最大の機会だった」旨の発言をしていますし(ただこのおっさんは発言内容がいちいち無意味に過剰です)、アメリカも日本の北進を恐れていたようなので(だからこそ石油禁輸した)、勝てる可能性がないということもなかったのであろうなと思われます。

ただ、こうして当時の日本の状況を見てみると、ドイツに呼応してソ連を攻めていれば戦争に勝てたのに、日本は愚かしくも南進を選択したと断定するのはあまりに当時の日本の事情を理解していない浅はかな考えであり、日本は合理的な考えの元に資源を求め南進を選択したことがわかるかと思います。

(参考文献)

牧野邦昭著「経済学者たちの日米開戦」(新潮選書)

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