なぜドイツはソ連侵攻し二正面作戦を選択したのか?【独ソ戦】

第二次世界大戦で、なぜドイツは独ソ戦を開始し、自ら破滅的な二正面作戦を展開してしまったのでしょうか。

ドイツは第二次世界大戦で西部戦線ではイギリス・アメリカと、東部戦線ではソ連と戦争を繰り広げ、ソ連にベルリンを占領され敗戦します。

二正面作戦が勃発したのは、ドイツによる対ソ戦の開始です。

1941年6月22日、世界史上最大の戦争となる独ソ戦が、ドイツの「バルバロッサ作戦」により開始されました。

日本人からすれば、第二次世界大戦の主戦場は日本がアメリカと激戦を繰り広げた太平洋であり、ヨーロッパ・ロシア戦線はどこか遠くの出来事と考える人も多いですが、第二次大戦で最大の激戦を繰り広げたのはドイツとソ連です。

規模だけ見ても驚愕するのですが、短期でのソ連打倒を目指す1941年のドイツの対ソ侵攻作戦「バルバロッサ作戦」では300万人を超す大軍団が一気にソ連国境を突破し、ロシア大陸に進撃しました。

映画「プライベート・ライアン」など、西側の世界で戦史の成果を誇るときに必ず出てくるのは連合軍の「ノルマンディー上陸作戦」で「史上最大の作戦」とか言われますが、この戦闘ではドイツと連合軍の兵士合わせても20万人ほどです。

連合軍のフランス上陸という政治的象徴的な意味合いは大きいですが、独ソ戦で展開された数百万の大軍同士の激戦と比べれば、いかに小さな規模での戦闘でしかなかったかがわかると思います。

第二次世界大戦の帰趨を決したのは、太平洋でも西ヨーロッパの戦線でもなく、ドイツとソ連の東部戦線での戦いです。

ドイツは、第一次世界大戦では二正面作戦をとったことが敗因となりました。

第一次世界大戦では、ドイツは西部戦線でイギリス・フランスを相手に戦い、東部戦線ではロシアを相手に戦うという、東西で戦線を構築し最終的には敗戦したのです。

普通に考えて、英仏ソと東西両戦線で戦争をすれば、不利になるのは当たり前です。

その反省により、ドイツは同じ過ちを繰り返さないよう、二正面作戦にはとても慎重でした。

そのため、ヒトラーは1939年に独ソ不可侵条約を締結し、東の安全を確保してから西方戦線を進めています。

1939年9月のドイツ軍のポーランド侵攻による英仏の対独宣戦布告により幕を開けた第二次世界大戦は、当初ドイツの電撃戦の前に連合国は圧倒され、ヨーロッパ最大の陸軍国と目されていたフランスはわずか1か月あまりで不甲斐なく降伏します。

残るはイギリスです。

ヒトラーは当初イギリス上陸の意図はなく、和平を提案しますがチャーチルはこれを拒否。英独空軍によるバトル・オブ・ブリテンの始まりです。

チャーチルは徹底抗戦方針を貫き、ドイツ空軍に頑強に抵抗し、イギリス屈服はなかなか実現しません。

そんな対英作戦が停滞する折、1941年6月にドイツは独ソ不可侵条約を破棄し、突如としてソ連に侵攻します。自ら二正面作戦に突入したのです。

二正面作戦とならないよう慎重に事を運んできた突然の対ソ開戦、結果ドイツは第一次大戦と同様に第二次大戦も敗北しますが、一見不合理と思える二正面作戦をなぜ選択したのか、軍事史が好きな人は関心がある分野ではないでしょうか。

対ソ開戦の理由は次の3点です。

  1. イギリスとの和平実現のため
  2. 東方生存圏獲得のため
  3. ルーマニアの油田へのソ連の脅威の攻撃防御による排除

以下、それぞれ見ていきます。

イギリスとの和平実現のため

後に述べますが、ヒトラーの最終目標は西方ではなく、あくまで東方にありました。

資源確保のため東方(東ヨーロッパやソ連といった、優秀なるドイツゲルマン民族に劣等するスラブ民族が住む地域です)に勢力圏を確保し、巨大帝国を構築する野望を抱いていました。

つまりはソ連打倒こそが、ヒトラーの最終目標なのです。

そのため、独ソ不可侵条約を結んで東方の安全を確保したあとにフランスを撃破し、イギリスとは講和を結ぶ意図がありました。イギリスと講和後に、本来の目的であるソ連に進撃する計画だったのです。

ダンケルクの戦いで、ドイツ装甲部隊を追い詰められた英仏連合軍に突入させなかったのも、イギリスとの和平を狙っていたためだと言われています(最も、現在はドイツ装甲部隊を温存させるためと、連合軍の艦隊による反撃を恐れたという説が有力のようです)。

余談ですが、ヒトラーは歴史ある大英帝国を築いたイギリスに対して敬意を払っていました。

ニコライ2世に風貌がそっくりな高校の世界史の先生が話していたのをよく覚えているのですが、ヒトラーの構想では、イギリスとドイツは、ドイツによるソ連征服後にイギリスがシーパワー(海洋国家)として、ドイツがランドパワー(大陸国家)として併存して君臨すべき存在でした。

ヒトラーはロシア人を劣等人種としてゲルマン人に征服されるべきものと考えていましたが、イギリス人に対してはそのような見方はしていません。

そのため、なんとか講話を実現させて対英戦を終結させたかったのですが、これを徹底的に拒否し自国のみではドイツに勝てないくせにアメリカの参戦に唯一の希望を託して徹底抗戦したのが、悪名高き時の英国首相ウィンストン・チャーチルです。

結果論として、イギリスはこの時ドイツと講和していれば、身の丈を超える戦争を継続して国力を疲弊し、戦後の大英帝国崩壊がこれほど速く実現することもなかったでしょう。

また、戦後の米ソ超大国の二強体制を招くこともなかったでしょう。

つまり僕はチャーチル嫌いです、はい。

話を戻すと、イギリスはまったく講和に応じないし、かといってはるかにドイツを上回る英海軍(イギリスは海洋国家なので、海軍は強いです。当時は日米英がシーパワー3強です。ドイツは大陸国家なので、陸軍は最強なのですが海軍は脆弱です)を屈服させてイギリス上陸作戦をとることもできません。

完全に手詰まりとなった対英戦打開のために、ドイツはソ連に侵攻しました。

イギリスが講和に応じないのは、アメリカとソ連の参戦を期待しているからだと考えていたのです。そのため、ソ連を打倒すれば、望みがなくなりイギリスは屈服するだろうと判断していました。

ソ連打倒により、イギリス戦線も終結するという理屈です。

結果としてイギリスよりもはるかに強大な国に対して戦争を開始してしまったわけですが、ここで言及する必要があるのは、当時ドイツはソ連軍をとても過小評価していたという事実です。

大戦初期の西部戦線での無敵の電撃戦の展開により自軍の能力を過大評価し、反対にソ連軍の力を信じられないくらい過小評価していました。

1940年からドイツは対ソ戦を想定して敵国の軍事力の分析や作戦の検討をしていたのですが、ソ連の動員可能な兵力数、装備の内容、指揮官の能力等、すべてにおいてソ連軍は脆弱と考えており、戦後の我々から見るとあり得ないくらいの楽観想定でいたことが判明しています。

フランスと同様、初期の電撃戦でソ連軍は瞬く間に崩壊し、10週間あればソ戦制圧は完了すると見込んでいたので、補給作戦など不要で兵站維持の構想も検討されないような有様でした。

ヒトラーは対ソ戦について、「土台の腐っている納屋は、入り口を一回蹴っただけで倒壊する」と発言しています。

このようにヒトラーやドイツ軍司令部の、戦後から見るとずさん極まりない楽観論が対ソ開戦に拍車をかけたといえます。

このソ連軍への評価という点については、同盟国日独はとても対照的です。

日本(特に陸軍)は、ソ連軍の脅威を正確に把握していました。そのため、バルバロッサ作戦初期のドイツの快進撃の報告を受けても、ソ連制圧は困難で、戦局は必ず長期化し泥沼となると判断していたようです。

日本は事前にドイツから対ソ侵攻を知らされておらず、対ソ開戦後に通知を受けドイツから対ソ参戦を要求されますがこれを断り南進を図ります。

このとき日本が対ソ開戦しソ連を日独で挟撃していたら、スパイゾルゲによる、日本は対ソ開戦せずとの情報を得たソ連が精鋭たる極東シベリア軍をドイツ軍が攻勢をかけるモスクワに派遣することもなく、ドイツはモスクワを陥落することができたのではとは歴史のifとして言われます。

日本陸軍は、とにかくソ連軍を恐れていました。

僕は日本は対ソ開戦せず南進で正解だったと思っていますが、機会があったらそれについても最新の学説を踏まえて書いていきたいです。

このときもし日本が対ソ開戦していたら、日本は米ソに北と南に分かれて分割統治され、今頃は北日本人民共和国と南日本民主主義国で対立していたでしょう。

長くなったし論点がずれたのでもう一度書きますが、ドイツはイギリスと講和もできず、かといって軍事力で屈服させることもできずに立ち往生となった中、ソ連を打倒すればイギリスは望みがなくなり和平に応じると判断したため、ソ連侵攻を実施しました。

しかもソ連軍が我が無敵のドイツ軍に比べればすべてにおいて劣悪な軍隊であると考えており、極めて短期間のうちにソ連打倒は容易に達成できるとするのがドイツ首脳部のコンセンサスであった、となります。

ヒトラーの当初からの野望である東方生存圏確保というイデオロギー

先に少し書きましたが、元々ヒトラーの最終目標はフランスでもイギリスでもなく、東方征服(ソ連)にありました。

ソ連を打倒しスラブ人を征服し、資源豊かな広大な領地を獲得することが、彼の究極目的なのです。ヒトラーが持つ「東方植民」のイデオロギーです。

ゲルマン民族の存続・拡大のためには、豊かな土地、資源を有する生存圏が必要であり、それを求めて東方に広大な植民地帝国を構築すべしという構想をヒトラーは一貫して所有していました。

この思想は、彼の著作である「我が闘争」にも表出しています。

ヒトラーは人種的な優劣に言及することが多かったですが(我が闘争では、黄色人である日本人を侮蔑するいわゆる「黄禍論」的な思想も表れています)、優れた人種であるドイツゲルマン民族の前に、ロシア人を含むスラブ民族は劣等であり搾取の対象として捉えています。

当初からの目標である東方に生存圏を確保するという野望実現のために、対ソ開戦したのです。

ルーマニアの油田へのソ連の脅威の排除

ドイツにとって戦争継続のために極めて重要なのは、ルーマニアの油田です。

日本同様「持たざる国」であうドイツは、石油の供給の大部分をルーマニアの油田に依存しており、この油田を失うことはドイツの戦争経済抗戦力に死活的な影響を与えるものでした。

独ソ不可侵条約を結んで相互の利益を確保したものの、独ソ関係はその後次第に悪化していきます。もともとドイツとソ連は水と油の関係なのです。

ソ連の領土的野心は拡大する一方で、フィンランド侵攻をはじめ、バルト三国の占領・併合を実施し、バルカン半島にも勢力圏を伸ばそうとします。

一方でドイツも、ドイツ系住民が居住する地域へと勢力を広げようとするソ連の行動は承認することができません。

ソ連はルーマニアの一部を占領するのですが、ドイツは軍をルーマニアへ派遣します。

こうした相互の勢力圏争いにより独ソ関係は悪化していき、ドイツとソ連は、フィンランド、バルカン半島をめぐって外交的な対立を深めていきました。

ただ、ヒトラーは独ソ関係緩和のために、何も策を講じなかったわけではありません。

フィンランドとルーマニアの勢力圏を巡る深刻な対立を抑えるため、ソ連に対して日独伊ソ四国協定を提案しています。ただ、ソ連はこれに乗りませんでした。

こうして外交的解決は不可能となります。

対英戦にかかっているときにルーマニアの油田がソ連に狙われた場合にこれをどう防衛するのか、ドイツ軍は作戦を練ります。

ドイツ軍は、敵からの攻撃を受けた後の防衛では不十分な防衛しか実施できず、先にこちらからソ連を攻撃するのが最も効率的な防御だとして「攻撃防御」の戦略に傾いていきます。

これだけ領土的野心のある国が、独ソ不可侵条約をいつまでも守る保証も一切ありません。

こうして、ルーマニアの油田へのソ連の脅威を排除するため、また外交的対立を背景に、ドイツは対ソ開戦の意思を固めていきます。

以上、ドイツによるソ連侵攻の理由を述べてきました。

イギリス屈服のためのソ連侵攻、ヒトラーの野望たる東方生存圏の獲得のためのソ連侵攻、先制攻撃によるルーマニアの油田防衛のためのソ連侵攻と、どれか1つの理由が絶対的というわけではなく、複合的なものだと思います。

独ソ開戦により結果としてドイツは破滅の道へと進みますが、開戦前の楽観的なまでの自国戦力の過大評価、ソ連軍の戦力の過小評価が致命的となりました。

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