【映画批評】「カメラを止めるな!」を見てきたので極力ネタバレなしで感想を書きます

会社帰りに、今とても話題になっている映画「カメラを止めるな!」を見てきました。レイトショーの時間帯でしたが、人がいっぱいいて人気ぶりを伺うことができました。

カメラを止めるな!は、前提情報を一切遮断して何も予備知識がない状態が1番楽しめる映画なので、これから映画館で見ようと思っている人は、本記事も含めて世間のレビューは一切見ないほうがいいです。

映画を見た後に、あーそうだよね、私も俺もそう思ったよ、そこポイントだったよね、あのシーンよかったよねと回顧的重畳的にレビューを見たほうが楽しめることができ、脳の快さも増し増しになると思います。

直接的な内容のネタバレはしませんが、それでも鋭い方は映画の構成や構図がなんとなく予見できてしまうかもしれませんので、これ以降の本記事の読み進めにはご注意ください。

抽象的に一部触れてしまっている箇所もあります。

それでは書いていきます。

唐突ですが、20世紀は何の時代かと問われたら、何と答えますか。

「戦争の世紀」、「コンピュータの世紀」と人によって様々な意見が出ますが、僕が最も腑に落ちたのは、20世紀は「コンクリートの世紀」である、という考え方です。

これは、東大工学部建築学科教授だった隈研吾氏の言葉です。確か「自然な建築」という氏の著作に出てくる文言です。

コンクリートは砂と水とセメントさえあれば誰でも容易に作ることができ、規格化も簡単。標準化、工業規格化されたコンクリートが全世界に広まることで人間の生活圏の大地がコンクリートに覆わました。そのようなコンクリートに包囲された生活が確立した時代をコンクリートの世紀と呼ばずして何と呼ぶ(具体的な本の内容は忘れているので理屈は僕の妄想含みます)。

日本の映画界も暗雲たるコンクリートに覆われています。

最大公約数の消費者に訴求するため、標準化・平準化・規格化・平均化された一時消費目的の映画が大量生産され、「大切な人と一緒に見に来てください」「新感覚ムービーです」「これまでにない感動をお届けします」と聞き飽きた地雷としか思えない広告ワーディングでマーケティングをしています。

テレビをつければ見慣れた俳優や女優が映画の番宣のために毎回バラエティ番組に出て、予告を見るだけで予告以上見る価値のない映画だとわかる映画を老いも若きも男も女もみんな楽しめる映画だと宿命的に宣伝しています。

(なお誤解なきよう申し上げれば僕はこのような大衆迎合化され規格化された「陳腐な」映画で制作側の狙い通り人並み以上に感動しよく涙する人間です。)

カメラを止めるな!は、このような多くの映画館で上映され僕たちが普段目にする平準化された映画の水準の映画製作が原理的・資金的・物理的・技術的・人員的な条件により不可能な製作チームが、本来であれば映画撮影にネガティブに作用するそれらのマイナスの状況を、機転を最大限に生かして顧客を楽しませる最大の方法に転換することに成功した稀有な事例です。

無限の開発資金・資源があるより、開発資金・資源の限界があるという一定の制約があったほうが偉大な製品開発ができるという逆説的な現実の実例化例です。

そのアイデア・構図を思い付いた時点で、我に勝利ありと言いたくなるような、その手があったかという、誰でも思い付きそうだけど意外と誰も思いつかず実践できず、実践された後に何でこんなすぐに思い付きそうなこと思いつけなかったんだとうという、そんなかゆがゆしい感覚を想起させてくれる映画です。

またB級ゾンビ映画という内容は、本作品の武器を最大限生かすための必要不可欠の要素になっています。だからゾンビ映画にしたのねと、これは必然です。

本作品は、野球でいえば、3番、4番、5番のクリーンナップを担える作品ではありません。クリーンナップは、マトリックスやロードオブザリングやスターウォーズなどがどっしりと座ればいいのです。かといって、出塁率が高くクリーンアップにつなげる1番にも入れません。

長嶋茂雄監督は巨人の監督時代、「意外性」という言葉をよく用いていました。元木や、広島からFAで巨人に移籍した江藤に対して、彼は意外性があるからという言葉をよく口にしていました。クリーンナップが総崩れしたあとに、正攻法的な打ち方では通じない相手球団のピッチャーに対して、意外性のあるバッティングで勝利打点を稼いでくれる曲者的な、打率・ホームラン・打点は平均的なバッターに劣るけれども、勝利打点だけはなぜか異様に高い7番バッターのような、そんな特定の条件下において存在感を現す切れ者的な属性です。

本人は至って本当に一生懸命やっているのだが、第三者から見るとたまらなく滑稽でファニーに感じることってありますよね。

例えば、世界の果てまでイッテQで、出川哲朗がアメリカに行って、指定された場所に現地の人に英語だけを使って道を尋ねてたどり着くという企画シリーズあります。英語が話せる出川ガールと、テレビの視聴者は出川のおかしさに大笑いしていますが、本人は(テレビ的におもしろくするための演技も入っているかもしれないことは否定しないものの)おそらく大真面目で彼が知っているすべての英語知識を総動員体制で導出して英語で外国人とコミュニケーションを実施しているわけです。その本気さと、出てくる全く違う語彙やかみ合わない行動、コミュニケーションの不整合の絵がどうにもおもしろおかしくて悪いけど笑わずにはいられない。真剣になればなるほど、本気で必死になればなるほどなぜかその姿がツボにはま ってますます面白おかしくて笑ってしまう、そんな抑えられないファニーな笑いの連鎖です。

各場面の登場人物のちょっとした行動、会話の一つ一つ、カメラワークがその場面だけで終わるものではなく、次に来る各シーンとしっかりと結合し、ストーリーの前後・流れを見事に有意に連関させて広がり・深みを持たせます。そしてそれがことごとく製作側の計算通りに見る者を唸らせ、笑いの連鎖の海に浸らせます。

粗雑で統一性がなく、無意味で冗長で稚拙な場面が、実はきめ細やかに計算され配置されたパズルの1ピース1ピースを構成し、時間差で各ピースが鮮やかに何の無駄もなく統合されていくのはキレッキレの知的な推理を見せられているようです。

僕は、カメラを止めるな!を一方的に賞賛する気はありません。映画館で絶対に見たほうがよい作品かと問われれば、それは否と答えます。

人生観に影響を与える映画でもなければ、青春の脆い感性に訴える作品でもありません。「カメラを止めなる!」と「おくりびと」のどちらかの存在しない世界を選べと選択を迫られれば、前者のない世界を選びます。

10年後に現在を思い返して、あの映画見て本当によかったなあと思い返す可能性は低く、時間の蓄積に耐えることができず記憶の端へと追いやられてしまうでしょう。

そのような意味では、一時的消費材的な属性からは逸脱できていない作品でしょう。

それでも、観てよかったと思える映画であることは間違いありません。作り手側の手作りの存在感や息吹が感じられ、脳の芯まで浸透する笑いと快感をもたらしてくれる、コンクリートがなかったことに感謝し肯定的に評価できる映画になっています。

点数を付けるなら、100点中79点です。

なお本作品は本作品のアイデア、構図が見事でありそれが好評価の主要ポイントになりますので、以下付随的なポイントになりますが少し細かいところを挙げます。

・女優さんが可愛すぎない適度な可愛さで、むちむちしているところ(それを意識させるカメラワークをしている気配あり?)はおじさんにはポジティブ要素だと思います。

・一応ゾンビが出てくる映画で、B級的なスプラッタなシーンもあるので、子どもやその手のものが苦手な人は注意が必要です。

・地味に父親と娘の繋がりを描いているシーンがあるので、子どもを持つ親はしんみりします。

・作中の映画監督とその家族の言動がとてもスカッとするので、開放感を得られます。

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